書くの忘れてたけど、昨日のヒルビュースタジアムの花火見てるときになんか飛んできて、額にガツッ!と激しくあたってたんこぶできました。
たぶん花火の破片。
カメラのレンズにあたらなくてよかった~。
とか思った後に、ん?と思った。
なんか自分の肉体結構大事にしてるようでないがしろなケースを結構思い出した。
19歳のときに友達のバイクでこけたんだけど、
そのときもバイクをかばって顔からこけたので、バイクはほぼ無傷だったんだけど、
私は差し歯が根元から3~4本くらい折れて歯の根元辺りの頭蓋骨もちょっと骨折した。
で、鼻の下からあごにかけてざっくり傷ができた。
バイク、無事でよかった~とおもったんだけど、
今思うとバイクなんかきっと保険とか入ってるだろうし、友達(正確には後輩のだったけど)壊れてもかまわんよね?
それちょうど成人式前だったので、顔ざくざくで成人式行くのもなんなので、確か着付けとかキャンセルしたような。
これはちょっと悲しい思い出。
なんか今思うと普通人だったそのころの方がかなり修行マインドだったんだと思うんだけど、
これは自分が見た目を気にすることへの調整だ、みたいに思って、
当時とにかくエゴを宇宙意識に溶け込ますということを人知れずやってたので、
そういう調整がもたらされたことに対してニコニコで、少しハイになっていた。
傷とか痛みとか負うとそれを超越してる自分を感じて喜びがわいてくる複雑な感じ。
ほかの人が私の顔を見てつらそうなのを見て余計に嬉しい感じ。そうじゃないんだよーみたいな。
今思うと不思議な精神状態だったなー。
悟ってるとか言われるはずだ。
今は全然言われないけど。
結局、バイト先の人に「金だしてやるから整形して来い」と言われ、
そこまで言われるんだったら治したほうがいいのかなと思って、自分で美容整形に行って1回手術を受けました。
3回に分けてする予定だったんだけど、1回でずいぶんましになったから1回でやめてしまった。
最近は、もし機会があれば残りの2回をいまさらだけどやってもいいかなと思ったりもすることもあります。
予定では自分のおしりかどっかの皮膚を移植するはずだったらしい。
大学時代はとにかく手術が多かった。
胸の腫瘍摘出、首の腫瘍摘出、顔の傷の美容整形、ひざのじん帯の再建手術、なんか他にもあったかもしれないけど忘れた。
そしてそのたびに自分の中のどこかが妙な感じでハイになっていた。
たぶん、苦行が好きな過去生があったんじゃないかな。
自分を痛めつけるの結構好きで喜びを感じていた。
うん。たしかにそうだ。
自分は肉体じゃない、と言うのを自分の肉体と精神に思い知らせてやれる喜びと言うか。
意識から切り離された肉体をモノとして扱うことに少し快感を感じていた。
今思うと屈折してる気がするけど。
ピアスを、尖らせたピアスを使って耳やら鼻やらにたくさんあけたり。
「これは豚肉だ」と思いながら刺していた。
それはほかの人にも及んで、
わたしがピアスの穴をあけれると聞いて、何人も「あけて~」と頼んできたので、
みんなの耳にも針を刺した。すごい、必殺仕事人みたいな冷酷な精神で。
そういう、肉体ないがしろ傾向は結構深くあったと思う。
自転車やバイクでよくこけてたんだけど、
自分の体を守ろうとする気が、こけた瞬間に放棄されるのが自分でもわかって、
あ、もういいや~、とか思って、だ~ん!と。必要以上にすごい強く体を打ち付けてしまったりしてて。
肉体をいじめる傾向は、
体外離脱経験にも強化されてて、というかそれが発端だったかもしれないけど、
肉体意味な~い!
と深く思っちゃってたと言うか。
今はそんなことないんだけど、
精神的にまだそういうとこあるよなと思います。
自分いみな~い、と、深く思っちゃってるようなとこが。
で、他をかばって自分ダメージ受ける、みたいな。
人間関係にもそういうゆがみがあるよなと思います。
やっぱ、自分の存在意義を喪失してるのが私の基本にある気がする。
自己喪失はとりあえずいいとしても、同時に他のものに価値を与えすぎてるとこもあると思う。
それもゆがみなんだろうな。
たとえば、自分の顔面と友達のバイクだったら友達のバイクのほうを身を挺して守っちゃう感じ。。。
他を大事にしすぎとか、
自分の限界値を無視して他を喜ばせようとしすぎるとか、そういうとこはあるのかも。
尊重しすぎ、与えすぎ、みたいな。
今朝実は誰かもののよくわかる人に個人カウンセリングというかリーディングを少ししてもらう夢を見た。
夢の中ではよく知ってる人だけどあれは誰なんだろう。現実に絡んでるのかどうかは不明。
ひとつだけ覚えてるのは、
結婚前に付き合ってた人がアル中で何とかかんとかといわれた。(←覚えてないし)
夢の中でかおきてからか忘れたけど、それを聞いて、
う~ん、そんなに飲んではいなかったけどなあ、と思ったんだけど、
そのリーディングしてくれた人の感じと、私が思ってる付き合ってた人のとらえかたの差を感じて、
あ、わたし、いい風に思いすぎてるのかもと思った。
今感謝しかないのだけど、
誰に聞いてもそれは悪い相手だったと言うんだけど。笑
100パーセント慰謝料取れるような関係だったんだけど、関わってた間にわたしに使った金ぜんぶ返してとか言われて、私のほうも費やしてたし、そんなの返す必要ないのはわかってたけど、わたしは相手が金が必要なんだろうと思って別れた(というか逃げた)後に毎月の給料から合計80万くらい、送ったりした。
まあそれは思いを残されていちゃもんつけられないように、彼に人生先に進んでもらうために手切れ金のつもりでもあったのだけど。
そういうことが私の人生にはとても多い。
つまりは自分どうでもいいって深いところで思ってるってことなんだろうなーと思います。
そういうことと、それと同時にほかの人に力を与えすぎるということがきっとセットになってるんだろうと思います。
で、それがバランスが崩れる原因なんじゃないかなと。
というかいつもバランス振り切れてる気もしないでもない。。。
ちなみにその結婚前の相手がソウルメイトだったと以前バラティさんに言われたんだけど、
わかるような気もするし、
なんか悲惨という気もする。苦笑
すでに出会って終わってると言うのがなんともがっかり。笑
人生に重要な役目を果たしたことには間違いないなと思いますけど。
今どうしてるのかわからんけど、
悲惨な目に合わされたことは本当によかったと思うんだけど、
だれも共感してくれない。笑
でも、相手をよく思うだけじゃなくて、だめだと切り捨てて思える視点を持つこともバランスをとる上で、客観性を身につけるうえで必要なのかもしれないなと思います。
たぶんじゃないといつまでも私はすべてにエネルギーを与えるばっかりで自分がいつもいない。
それもいいような気もするんだけど。笑
でもそれだと自分も相手もいつもエネルギーバランス極端に振り切れてて、こ二元性の現実世界に生きてるとはいえない感じ。
それを、最近ちょっと思います。
ものすごくないがしろにされたり、心身の暴力を受けたりということが役者を変えて次々と起こるということは、その受け皿を私が持ってると言うことだし。
つまり、自分のことを他人に干渉させるものを持ってるというか。
パズルのピースをもってるんでしょうね。
住まいのジャングル計画、ということなんですが、
今日、植木屋さんが他の人たちと植木を運んできて、鉢に植え替えて各場所にセッティングも一応終了。
たくさんの植木に住まいが囲まれて、なんだか人ごみの中にいるかのようで落ち着かない。笑
たぶん、今日来てくれた8~9人の作業の人たちの雰囲気が植木とそれに関して私の記憶に残ってるんだと思います。
寄せ植えとか、自分がゆっくり考えながら自分でやろうと思ってたんだけど、結局作業員にみんなやってもらったので、まだ自分と植木がうまくなじんでないんだと思う。
まあでも一人じゃない感じにはなります。だれかが、なにかがいる、ってかんじ。
まだちょっと、ざわざわとざわついた感じだけど。
セッティングに自分が手をかけなかったので、植木と仲良くなれるかな?
できるだけいじったりなんかしようと思います。
場の歴史がそうやって作られていくのですね。
でもこれらもすべて消していいものなんだろうか?
よい記憶さえも?
う~ん、まあ、そうかもしれないなと思います。
できたらアシュラムに住みたいと思うこともあるし、
そうしたらアパートで植木に手をかけたことなんかはまったく無意味なことになると言うか、
その重みを完全に失うだろうから。